# 額面はゼロ、効果はゼロではない「0ルピー紙幣」

配信日: 2026-08-15(朝7:00配信) / 通巻 第86号 / カテゴリ: 文化

かつて、インドの行政窓口では、本来無料のはずの出生証明書の発行や運転免許の更新、水道修理の手配といった手続きにも、窓口の役人へ「お礼」という名の賄賂を渡さないと話が進まないことが多々あったという。断れば書類は棚の奥で眠ったままになり、次に窓口を訪れても同じ要求が繰り返される。役人と市民の力関係は最初から釣り合っておらず、多くの人は暮らしへの影響を恐れて、納得できないまま現金を差し出していたという。2005年に行われた調査では、回答者の62％が、行政に仕事をしてもらうために賄賂を払ったり、不正な人脈を利用したりした経験があると答えている。

ところがインドには、その力関係を逆手に取るために作られた「紙幣」が存在する。額面はゼロ、実際には何の価値もない紙幣、「0ルピー紙幣」である。本物のインド紙幣に似せたデザインだが、インド政府が発行した法定通貨ではない。賄賂を求められた市民が、現金の代わりに役人へ差し出し、抗議の意思を示すための模造紙幣だ。

使い方は単純である。役人から賄賂をほのめかされたら、真正面から言い争うのではなく、財布から0ルピー紙幣を差し出す。賄賂の要求そのものを無視するのでもなければ、渋々従うのでもない。相手の要求を理解したうえで、「その要求に支払う価値はゼロだ」と紙幣の形で突き返す。無言ながら、これ以上ないほど雄弁な返答である。

世界銀行のブログは、この紙幣を人々が提示する行為について、賄賂を公然と非難する意思表示になると説明している。役人にとって恐ろしいのは、単に現金を受け取れないことではない。目の前の市民が自分の要求を賄賂だと認識し、それに抵抗する知識と意思を持っていると分かることである。賄賂を要求した事実が表沙汰になれば、懲戒処分を受けたり、職を失ったり、刑事責任を問われたりする可能性もある。0ルピー紙幣には法的な強制力こそないが、それを見せることで「私はこの行為が不正だと知っている」と役人に伝えられるのだ。

この紙幣が巧妙なのは、賄賂を拒む際の心理的な負担を小さくした点にある。権限を持つ役人に向かって、不正を正面から指摘するのは簡単ではない。怒鳴られるかもしれないし、必要な手続きを止められるかもしれない。まして証人のいない窓口であれば、なおさら声を上げにくい。しかし、紙幣一枚を差し出すだけなら、長い抗議の言葉も激しい口論も必要ない。0ルピー紙幣は、個人の怒りを、誰にでも再現できる決まった行動へと変えたのである。

もちろん、0ルピー紙幣が全てのインドの汚職を一掃したわけではない。紙幣を差し出せば必ず役人が引き下がるとも限らず、市民側が不利益を受ける危険も完全には消えない。それでも、この運動が生み出した意味は小さくない。これまで抵抗されることに慣れていなかった役人に対し、市民が目に見える形で意思を示す手段を与えたからだ。額面はゼロでも、その一枚が持つ社会的な意味までゼロではなかった。

ちなみに、0ルピー紙幣の発想は、インド出身の物理学教授サティンダル・モーハン・バガットが、一時帰国中に役人から繰り返し金銭を要求された経験から生まれたとされている。その着想を5th Pillar代表のビジェイ・アナンドらが大規模な運動へと発展させ、普通の市民が紙幣を一枚差し出すだけで不正に「ノー」と言える仕組みに変えた。賄賂への支払いを拒むために作られた世界でも珍しい紙幣は、金銭的な価値はなくとも、声を上げにくい人々へ与えた勇気には、数字では表せない価値があったのである。

## 出典

- [0ルピー紙幣](https://ja.wikipedia.org/wiki/0%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%BC%E7%B4%99%E5%B9%A3) — "0ルピー紙幣（ゼロルピーしへい）とは、汚職との戦いを支援するためにインドで発行されている模造紙幣である。"
- [Zero-rupee note - Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Zero-rupee_note) — "A zero-rupee note is a banknote imitation issued in India as a means of helping to fight systemic political corruption."(major)
- [How a professor started a campaign to fight everyday corruption in India](https://blogs.worldbank.org/en/governance/how-professor-started-campaign-fight-everyday-corruption-india) — "When people have the courage to show their zero-rupee notes, they are condemning bribery. Officials want to keep their jobs and are fearful about setting off disciplinary proceedings, not to mention risking going to jail."(primary)

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