甘い羊羹のルーツは、まさかの中国の羊肉スープだった
つやつやとした小豆色の羊羹を切り分けながら、その名前に「羊」の字が入っていることを気に留める人は少ないだろう。中身はどう見ても小豆と寒天で、羊肉はおろか動物性の材料はどこにも見当たらない。植物性の材料だけでできた菓子に、なぜ動物の名前が刻まれているのか。
実はこの名前、単なる当て字ではない。羊羹はもともと文字通り「羊の羹(あつもの)」――つまり羊肉を煮込んだスープを指す言葉だったとされる。「羹」の字自体が「あつもの」、すなわちスープや汁物を意味する漢字であり、羊羹はその名の通り中国大陸で生まれた羊肉料理が原形だったという。今の姿からは想像しにくいが、羊羹はかつて甘い菓子どころか、塩気のある肉料理そのものだったことになる。
では、なぜスープが小豆の蒸し菓子に化けたのか。ここに日本ならではの事情が絡んでくる。鎌倉から室町時代にかけて中国へ留学した禅僧たちが、食間にとる軽食「点心」のひとつとしてこの料理を日本に持ち帰った。ところが禅宗の戒律は肉食を禁じている。羊肉のスープをそのまま再現するわけにはいかない。そこで禅僧たちは、あずきや小麦粉、葛粉といった植物性の材料を練り合わせ、羊肉の質感やとろみに見立てた精進料理を編み出したと考えられている。1300年代から1400年代にかけて羊羹に小豆が使われるようになり、羊肉のスープに見立てた精進料理として日本で広まっていったとされる。
つまり羊羹は、「羊のいない羊肉料理」を作ろうとした禅僧たちの試行錯誤の産物だったというわけだ。汁気のある精進料理は次第に汁気を失い、蒸して固める蒸羊羹へと形を変えていく。さらに国内で砂糖が生産されるようになると、もとは塩気の効いた精進料理だった羊羹に甘みが加えられ、菓子としての性格を強めていったとされる。転機はさらに後、江戸時代前期に訪れる。1657年に寒天が発見され、その翌年にあたる1658年、京の鶴屋六代目・岡本善右衛門が寒天を用いた煉羊羹の製法を確立したと伝えられる。以後、江戸時代を通じて主流は蒸羊羹から煉羊羹へと移り、日持ちがよく艶やかな今の羊羹の姿に近づいていった。
羊肉のスープから精進料理、蒸羊羹、そして寒天の煉羊羹へ――「羊羹」という一つの名前が、数百年をかけて中身をまるごと入れ替えながら生き延びてきたことになる。肉のスープを模すために肉を使わない、という禁忌が生んだ逆説的な発想が、時をかけて日本を代表する和菓子のひとつを形づくった。漢字の「羊」は、その長い改良の歴史をひっそりと今に伝える一字なのである。ただし語源や伝来の細部には諸説あり、資料によって記述に幅がある点には留意したい。
日本の文献に羊羹の記載が見える早い例のひとつは室町時代前期の往来物『庭訓往来』とされ、そこにはタケノコ入りと考えられる「箏(笋)羊羹」、砂糖入りと考えられる「砂糖羊羹」という名が記されている。