180年前からあった「空気で膨らむボート」
探検用のボートと聞くと、分厚い木材や金属でがっちりと組み上げられた、いかにも頑丈な乗り物を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。まして北極圏のような極限環境を旅するとなれば、多少重くても頑丈さを最優先すべきだ、というのが常識的な発想だろう。
ところが、今からおよそ180年前、その常識をひっくり返す発想のボートが実在した。その名も「ハルケット・ボート」。1840年代、イギリスの陸軍中尉ピーター・ハルケット(1820〜1885)が設計した、空気を入れて膨らませるタイプの軽量ボートである。ゴム引きの布でできた船体は、使わないときは空気を抜いて折りたためるほどコンパクトで、探検隊員がひとりで担いで運べる重さに収まっていたという。
ハルケットがこの一見奇抜な発明に取り組んだ背景には、彼が長年抱えていた切実な問題意識があった。当時、カナダ北極圏を旅する探検家たちにとって、氷雪に閉ざされた大地の途中に現れる川や湖をどう渡るかは、まさに死活問題だった。かといって、頑丈な木造ボートは重すぎて、荒れた陸路を人力で担いで運ぶのは現実的ではない。逆に軽さだけを追求すれば、今度は極寒・強風といった過酷な気象条件にとても耐えられない。「持ち運べるほど軽いこと」と「厳しい自然の中で実際に使えるほど頑丈であること」――一見両立しないこの二つの要求を、ハルケットは空気で膨らませるという構造によって同時に満たそうとしたのである。
言ってしまえば、これは現代の登山用エアマットやインフレータブルカヤック、レジャー用のゴムボートにも通じる発想だ。素材そのものを分厚くして強度を稼ぐのではなく、空気という「クッション」を利用することで、軽さと頑丈さという本来トレードオフになりがちな二つの性能を両立させる。180年前、極地探検の厳しい現場から生まれたアイデアが、今なお海や川のレジャーを陰で支えているのだとしたら、それもまた面白い巡り合わせだ。
19世紀半ばはゴム引き布がようやく実用化され始めたばかの時期である。当時の最先端技術と探検家自身の切実な現場感覚から、このような発明が生み出されていたというのは、なかなか興味深い話ではないだろうか。