配信: 2026-07-08 07:00(JST)
朝刊
第10号

中世で腐った肉の臭み消しにスパイスが使われた、というのは俗説

チナミニチンチラが読み上げます(4分6秒)

冷蔵庫のない時代、中世ヨーロッパでは腐りかけの肉の匂いをごまかすために大量の香辛料を振りかけていた——学校の授業や料理番組でもよく耳にする話だ。「保存技術がなかったのだから仕方なく」という説明は妙に説得力があり、多くの人が疑わずに信じている。

ところが、この話は歴史学的にはっきり否定されている俗説にすぎない。理由は単純明快で、当時の香辛料はとてつもなく高価な贅沢品だったからだ。胡椒やシナモン、クローブ、ナツメグといったスパイスの多くは、はるかインドや東南アジアの島々からラクダの背やダウ船、地中海の交易船を乗り継いで運ばれ、そのたびに関税や仲介手数料が幾重にも上乗せされた末に、ようやくヨーロッパの市場に並んだ。買えるのはごく一部の貴族や富裕な商人だけであり、そうした階層は当然、腐りかけの肉など仕入れる必要のない立場にもあった。自前の家畜を飼い、市場でも一番良い部位を真っ先に確保できる人々が、わざわざ傷んだ肉を安く仕入れて超高級品でごまかす、という発想自体がそもそも経済的に成立しない組み合わせなのだ。

さらに決定的なのは、当時の文献をいくら探しても「まずい肉や傷んだ肉の味をスパイスで隠せ」と勧める記述が一件も見つかっていないという点だ。中世の料理書や家政の手引きには香辛料の使い方についての記述が数多く残っているが、それらはもっぱら味に贅沢な格を与える、来客をもてなす、あるいは当時主流だった医学思想にもとづき、体液のバランスを整えて健康を保つといった目的のためのものだった。「腐敗や異臭を隠す」という発想での言及は、探した限りどこにも見当たらないという。

では、なぜこの俗説がこれほど広く語り継がれているのだろうか。おそらく「冷蔵庫がない、だからすぐ肉が腐る、困った人々が知恵を絞った」という、現代人にとって直感的に想像しやすいストーリーの型に、香辛料という異国的で神秘的なアイテムがぴたりとはまり込んだためだろう。実際の中世社会では、肉の保存には塩漬け、燻製、酢漬けといった実用的で手間のかかる技術がすでに広く使われており、家畜も基本的には必要な分だけその場でさばいて新鮮なうちに食べるのが普通だった。都市部の市場でも、食肉の取引や販売には衛生上の規則が設けられていた記録が残っており、「傷んだ肉が日常的に出回っていて香辛料で誤魔化すしかなかった」という前提そのものが、当時の食生活の実態とはかなりかけ離れている。

ちなみに、

この俗説があまりに根強く語られ続けていることについて、イェール大学の歴史学者ポール・フリードマンは、事実だけではなかなか払拭できないほど本能的に人を惹きつけてしまう、一種の都市伝説のようなものだと評している。もっともらしい理由づけとキャッチーなイメージさえ揃えば、事実確認より先に「腑に落ちる話」として世間に定着してしまう。この俗説自体が、根拠の薄い噂がどのように広まり、しぶとく生き残っていくのかを示す好例になっている。