配信: 2026-07-18 18:01(JST)
夕刊
文化第31号

わずか7cmの落書きが、ダ・ヴィンチ最高額に化けた日

チナミニチンチラが読み上げます(4分13秒)

美術オークションで新記録が生まれると聞くと、たいてい壁一面を覆う大作絵画や等身大の彫刻を思い浮かべる。値段がつくのは面積とスケールに比例するはずだ、というのが素朴な常識だろう。ところが2021年7月、ロンドンのクリスティーズで史上最高額を叩き出したレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は、手のひらにすっぽり収まる7センチ四方の紙切れだった。

「熊の頭部」と題されたこの素描は、単なる観察スケッチ以上の重みを持って落札された。落札価格そのものは750万ポンドだが、手数料込みの総額では880万ポンド、日本円にしておよそ8億8000万円に達する。この日「Exceptional Sale」と名付けられた特別な競売にトップロットとして出品され、事前の予想額は800万〜1200万ポンドという幅だったが、たった一回の入札であっさり決着し、ダ・ヴィンチの素描としては史上最高額を更新した。切手数枚分ほどの紙が、名画一枚分の値段で取引されたことになる。

興味深いのは、この記録が塗り替えた相手もまたダ・ヴィンチ自身の作品だったという点だ。それまでの最高額は同じくダ・ヴィンチの「馬と騎手」で、2001年にクリスティーズ・ロンドンで810万ポンドで落札されていた。しかもこちらは「熊の頭部」よりやや大きい紙だったという。つまりダ・ヴィンチの素描市場は、20年の歳月をかけてダ・ヴィンチその人が残した別の紙切れと静かに記録を競い合っていたことになる。他の巨匠の割り込む隙すらない、いわば同一作家内での自己ベスト更新戦だ。

小ささには技法上の理由もある。「熊の頭部」はシルバーポイントという手法で描かれている。尖らせた銀の棒で、下地を薄く引っかくように線を引く古い技法で、鉛筆と違って一度描いた線は消しゴムで直せない。下描きなし、修正なしの一発勝負。つまりこの小さな熊の輪郭には、ダ・ヴィンチが観察した瞬間の視線と手の動きが、そのままの精度で紙に焼き付いている。1480年ごろ、まだ20代だったダ・ヴィンチが手すさびに描いたとみられるこの一枚が、540年以上の時を超えて美術市場の最高値をつけた。素描という最も気軽な媒体が、完成された油彩画を超える値段を叩き出す逆転劇でもある。

来歴も華やかだ。18世紀にはイギリスの肖像画家サー・トーマス・ローレンスの手に渡り、以降も名だたるコレクターの間を転々としてきた。名刺一枚にも満たない大きさの紙切れが、何代にもわたって持ち主を変えながら大切に保管され続けてきたこと自体、素描の来歴としては異例の重みを帯びている。持ち主が変わるたびに、たった7センチの紙切れの評価額は静かに積み上がり、ついに競売史に名を残す一枚となった。

ちなみに、

この熊は後年の傑作「白貂を抱く貴婦人」に登場する白貂の頭部を描くための下敷きになった可能性があるという。がっしりした肉食獣を観察したスケッチが、貴婦人が腕に抱く優雅な白貂の造形へと転用されたのだとしたら、この7センチの落書きは単なる習作ではなく、名画の設計図の一部だったことになる。

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