猫が物理学の論文を学術誌に発表した話
学術論文の著者欄は、研究に人生を捧げた研究者だけが名を連ねる、真面目さの象徴のような場所だ。査読を経て国際的な専門誌に載る以上、そこに並ぶのは博士号を持つ人間の名前に決まっている――はずだった。
ところが物理学の権威ある専門誌『Physical Review Letters』には、実在するシャム猫の名前が著者として印刷された論文が存在する。名前はF・D・C・ウィラード。この名は、チェスターという名の猫のペンネームだった。チェスターはこのペンネームを使い、一度は共著者として、もう一度は単独著者として、物理学に関する論文を科学論文誌に発表している。
事の発端は1975年、ミシガン州立大学の物理学教授ジャック・ヘザリントンにさかのぼる。彼は固体ヘリウム3の原子交換効果についての論文を、タイプライターで「われわれは」という一人称複数形を使って書き上げていた。ところが投稿直前になって、その専門誌が単著論文では一人称単数の「私は」を使う決まりだと気づかされる。当時のタイプ原稿をすべて打ち直すのは大仕事だ。一晩考えた末、ヘザリントンは共著者として、家族の飼い猫の名前をタイトルページに加えることにした。これなら「われわれ」のままで筋が通る、という理屈だった。
こうして生まれたのがF・D・C・ウィラード名義である。論文「Two-, Three-, and Four-Atom Exchange Effects in bcc 3He」は、同年11月24日発行のPhysical Review Letters第35巻21号に、ジャック・H・ヘザリントンとF・D・C・ウィラードの共著として掲載された。査読者も編集部も、共著者の一人が四本足の哺乳類だとは気づかなかったという。文献情報を機械的に管理するWikidataには、この論文の著者として「Jack H. Hetherington」と並んで「F. D. C. Willard」の名がきちんと登録されており、巻号・ページ・DOIまで人間の共著者とまったく同じ形式で記録されている。つまり冗談半分の共著者名が、半世紀近く経った今でも書誌データの上では正式な研究者として扱われ続けているわけだ。
話はこれで終わらない。1980年、ヘザリントンはウィラード名義で、フランスの科学誌『La Recherche』に、次は単独著者としてヘリウム3に関する論文を発表した。学術誌の著者欄に猫の名前だけが載るという、前代未聞の記録を打ち立てたことになる。査読という関門を、人間の研究者と同じ土俵で二度も通過してみせた猫は、後にも先にもそう多くはいないはずだ。
ウィラードことチェスターの生没年はおよそ1968年から1982年と伝わる。共著デビューの1975年にはすでに7歳前後、単著論文を発表した1980年には12歳ほどのベテラン研究者だったことになり、晩年まで筆――もとい肉球を休めなかった猫だったようだ。
出典
独立した出典 4件- 大手F・D・C・ウィラードja.wikipedia.org
- 大手In 1975, a cat named F.D.C. Willard co-authored a physics paper. (Slate)slate.com
- 大手In 1975, a Cat Co-Authored a Peer-Reviewed Physics Paper (ScienceAlert)sciencealert.com
- 一次Two-, Three-, and Four-Atom Exchange Effects in bcc 3He (Wikidata / Physical Review Letters vol. 35, 1975)wikidata.org