銀行より賢い男の契約書ハック
契約書の細かい文字は、たいてい読み飛ばされる。金利や手数料の欄をわざわざ電卓片手にチェックする人は少なく、たいていは「銀行が出してきたものだから」とサインしてそのまま返す。ロシアのある銀行の担当者も、送り返されてきた申込書がまさか中身ごと差し替えられているとは思わなかった。
ロシアに住むドミトリー・アガルコフという男性のもとに、ある銀行からクレジットカードの契約書が届いた。年利45%、各種手数料ありという、消費者にはかなり厳しい条件だった。しかし彼はこれをそのまま受け取らなかった。契約書一式をスキャンし、パソコン上で条項を丸ごと書き換えたのだ。金利は0%、手数料なし、利用限度額の制限なし、そして極めつけに「銀行側が契約条件を破った場合は違約金を支払う」という一文まで書き加え、署名して銀行に送り返した。
対する銀行側の対応は不用心だった。担当者は書類の中身を精査しないまま、この“自作契約書”をそのまま承認し、実際にカードを発行してしまった。アガルコフ氏は何年もの間、この特別な条件のカードを使い続けたとされる。
この行為が単なるいたずらで終わらなかったのは、契約が成立するしくみそのものを突いていたからだ。銀行が出した契約書はあくまで「申し込みの誘引」にすぎず、申込者が条件を書き換えて署名した時点で、それは銀行に対する新たな「申し込み」に変わる。銀行が中身を確認せずにこれを承認し、実際にカードを発行して口座を有効化した以上、それは黙示の「承諾」とみなされてもおかしくない――というのが、のちの裁判で採用された論理だった。
事態が動いたのは数年後、彼が返済を延滞したときだった。銀行はごく普通の督促のつもりで彼を提訴した。ところが法廷に持ち込まれたのは、銀行自身が承認印を押した「アガルコフ版」の契約書だった。裁判所の判断は明快だった。銀行が中身を確認せずに受理し発行した以上、そこに書かれた条件こそが両者が合意した契約である、というものだ。結果、銀行の主張はほぼ退けられ、アガルコフ氏に命じられたのは元金19,000ルーブルの支払いのみ。当初提示されていた高金利や手数料は一切適用されなかった。
さらに話はここで終わらない。まんまと有利な契約を勝ち取った彼は、今度は攻守を入れ替える。自分が書き加えたあの違約金条項――「銀行側が契約条件を破った場合は違約金を支払う」という一文――を根拠に、逆に銀行を提訴したのである。当初は延滞金をめぐるだけの争いだったはずが、この逆提訴によって話の規模はまったく別次元へと膨れ上がった。銀行にとっては、自分たちが一度も読まずにハンコを押した書類が、そのまま自分たちの首を絞める凶器に変わった格好だ。この一件はロシア国内だけでなく海外メディアにも取り上げられ、「契約書は隅々まで読め」という教訓として語り継がれることになった。
アガルコフ氏は元警察官だったと報じられている。捜査や書類仕事に通じた人物だったからこそ、契約書のどこをどう書き換えれば法的な効力を持つかを見抜けたのかもしれない。