20億円の絵画の運命を「ジャンケン」で決めた美術界
世界的なオークションハウスの取引というと、緻密な鑑定書、弁護士を交えた契約書、駆け引きに満ちた交渉の末に決まるものだと誰もが思うだろう。数十億円規模の商談ならなおさら、そこには高度な戦略と専門知識がぶつかり合っているはずだ。300年近い歴史を誇るクリスティーズと、それに匹敵する老舗サザビーズ。世界二大オークションハウスであるこの両雄が同じ案件で激突すれば、勝敗を分けるのはさぞかし緻密な戦略のはずだと考えるのが普通だろう。
ところが2005年、そのイメージを根底から覆す出来事が東京で起きた。マスプロ電工という日本企業が、約20億円相当の絵画コレクションの競売を、クリスティーズとサザビーズのどちらに委託するか決めかねていた。両社が提示した手数料や販売戦略はほとんど差がなく、担当者たちはどちらを選んでも結果は大差ないと感じていたという。埒が明かない交渉の末、企業側はついに「両社の代表者によるジャンケン対決で決める」という前代未聞の裁定を下した。
サザビーズ側はこれを軽く受け止め、特に作戦も練らずに運任せで臨んだ。一方、クリスティーズの日本法人代表を務めていたニコラス・マクリーン氏は、この一戦を本気の勝負として捉えた。周囲の助言役に意見を求めて回った末、最終的に相談したのは当時11歳だった双子の娘たちである。そこで娘の一人、フローラは、友達との遊びを通じて得た経験から、次のように助言したという。「グーはあまりにも見え見え。だから最初はチョキを出すものよ」。
子供の思いつきのようでいて、そこには独特の読みがあった。ジャンケンでは最初にグーを選びやすく、それを見越した相手はグーに勝つパーを選びがちになる。フローラの助言は、そのさらに一歩先を行くものだった。「みんながパーを警戒して構えているなら、パーに勝つチョキこそが正解」という二段構えの読みである。プロの投資顧問や弁護士が出せなかった答えを、小学生の経験則が導き出したのだ。
マクリーン氏はこの助言に従い、迷わずチョキを選択した。対するサザビーズの代表はセオリー通りパーを出し、結果はクリスティーズの勝利に終わった。約20億円規模の絵画コレクションの行方は、専門家の交渉術ではなく、11歳の少女が口にした何気ない助言によって決まったのである。この結果を受け、コレクションは正式にクリスティーズが競売を担当することで決着した。この勝負は、堅苦しい美術市場の一角に、子供の経験と直感が数字を動かした瞬間として記録に残ることになった。
このたった一回のジャンケンでクリスティーズが手にした手数料収入は、数百万ドル規模にのぼったとされる。オークション業界の歴史の中でも、もっとも高くついた、そしてもっとも安上がりに決着したジャンケンの一戦だったのかもしれない。