配信: 2026-08-18 07:00(JST)
朝刊
歴史第92号

人ではなく「教会の鐘」が、国家反逆罪で有罪判決を受けシベリア送りになった話

チナミニチンチラが読み上げます(4分41秒)

法廷の被告席に座るのは、人間か、もしくは法人のような組織だと相場が決まっている。大昔のヨーロッパには動物を法廷に立たせた前例こそあるが、金属の塊が正式な判決を受けた例はロシアのこの一件をおいて他にない。16世紀末のロシアで、「教会の鐘」が国家反逆罪に問われ、有罪判決を受けたのである。判決を下したのは、当時実権を握っていた大貴族ボリス・ゴドゥノフだった。

事の発端は1591年、モスクワ北方の町ウグリチで起きた皇太子ドミトリーの変死である。城内で喉を切られて倒れているのが見つかり、公式の調査では「発作を起こして遊んでいたナイフで自らを傷つけた事故」と結論づけられた。しかし住民たちは信じなかった。ドミトリーはイヴァン雷帝の末子で、当時の皇帝フョードル1世に世継ぎがいない以上、次の皇帝候補にもなり得る少年だった。摂政として権勢をふるうゴドゥノフには、彼を亡き者にする動機があるとみられていたからだ。当時のロシアにおいて、教会の鐘は時刻を告げるだけのものではなく、火災や外敵の襲来を住民に知らせる警鐘でもあった。教会で鐘が打ち鳴らされると、ゴドゥノフを疑う住民たちは武器を手に集結し、ゴドゥノフの関係者とみなされた役人たちを次々と殺害した。ドミトリーの死をめぐる疑念は、たちまち大規模な暴動へと発展した。

事態を重く見たゴドゥノフは徹底的な報復に出た。首謀者とされた住民は処刑され、多数が追放される。そしてゴドゥノフが暴動の"扇動者"として名指ししたのが、あの鐘そのものだった。鐘は鐘楼から引きずり下ろされ、人間同様に正式な裁判にかけられて有罪となる。刑の執行もまた、人への罰とほぼ同じ手順で行われた。鍛冶屋がまず鐘の内部にある"舌"――音を鳴らす撞木――を引き抜き、二度と声を発せられないようにした。続いて吊り下げるための金具("耳")まで切り落とし、公衆の面前で重い鞭による笞刑に処す。ロシア側の記録によれば、打たれた回数は12回だったという。そして最後は、同じくシベリア送りとなった住民たちに綱で引かせ、陸路はるばるシベリアのトボリスクまで追放した。裁かれ、罰せられ、追放されたのは、人ではなくただの鋳物だったのである。

この一件は単なる地方の一悲劇では終わらなかった。跡継ぎのいないフョードル1世が1598年に没すると、後見役だったゴドゥノフ自身が皇帝の座に就く。ところが数年後、「死んだはずのドミトリーが生きていた」と名乗る人物が次々と現れ、ロシア全土を巻き込む大混乱"動乱時代"の引き金となった。一つの鐘の音から始まった暴動は、結局ロシアの王朝そのものを揺るがす事態にまで発展したのである。

ちなみに、

この鐘はシベリアでそのまま朽ち果てたわけではない。追放から実に300年ほどが過ぎた1892年、鐘はようやく赦されて故郷ウグリチへの帰還を許された。舌を失い二度と鳴ることのないその姿は、今も"血の上の聖ドミトリー教会"に隣接する郷土博物館で、当時のままの姿で静かに展示されている。声を封じられたまま、それでも300年後に故郷へ帰れた――鐘にしては、なかなか数奇な人生ならぬ"鐘生"である。伝承では、この鐘こそロシア史上"最初にシベリア送りとなった存在"とも呼ばれている。

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