配信: 2026-09-01 07:00(JST)
朝刊
文化第120号

ギネス世界記録は、1人の男の言い訳から始まった

チナミニチンチラが読み上げます(4分45秒)

3分間で食べたホットドッグの数も、卵を投げて届いた距離も、公式に記録として認めるギネス世界記録。ロンドン、ニューヨーク、北京、東京、ドバイに拠点を構え、世界各地に公式認定員を置く、記録認定の最高権威。データベースに登録された記録は5万3000件を超える。ところが意外にも、この組織の出発点に記録の話は一切出てこない。始まりは、狩りで鳥を撃ち外した男の言い訳である。

舞台は1951年11月10日、アイルランド南東部ウェックスフォード州。スレイニー川沿いで、狩猟パーティーが開かれていた。参加者の一人が、ギネスビール醸造所のマネージング・ディレクター、ヒュー・ビーバー卿。飛び立ったムナグロを狩猟し損ねた彼は、仲間にからかわれた際こう言い返した——ムナグロはヨーロッパで一番速い狩猟鳥だから当たらないのだ、と。すかさず別の一人が反論する。いや、一番速いのはアカライチョウだ。

言い合いはその晩の夕食に持ち越され、ホスト宅の書斎に舞台を移し、賭けまで行われるほど白熱した。ところが、書斎じゅうの参考書を夜通し引いても、答えはどこにも書かれていない。決着がつかないまま、一同は翌日それぞれの帰路についた。このときビーバーはある事に気がつく。鳥の速さそのものではない。英国じゅうのパブで酔っ払い達が毎晩こういう言い争いをしているはずなのに、それを裁定できる本が世界に一冊も存在しない——そのことだった。

3年後の1954年、新しい販促の手を探していたビーバーは、あの晩を思い出し、「パブの口論に決着をつける本」をギネスビールの宣伝物として配ればいいのでは、と思いつく。編纂を任されたのは、フリート街で事実調査を生業にしていた双子、ノリスとロスのマクワーター兄弟だった。同年9月14日に依頼、11月30日にギネス・スーパラティブス社を設立。オフィスは体育館を改装した2部屋。執筆にかかったのは、週90時間の作業を13週半。週末も祝日も返上し作成したという。

まず1000部が、英国とアイルランドのパブに無料で配られた。これが客に大受けし、売り物としての記録本があらためて企画される。198ページ・約4000項目の初版は1955年8月27日に製本され、クリスマスまでに英国のベストセラー1位に到達。翌年アメリカに渡って7万部を売り、以後100か国・40言語で1億5000万部以上を重ねた。ビール会社のノベルティが、世界一売れた著作権つき書籍シリーズになったわけである。

ちなみに、

ムナグロ対アカライチョウの結果について、本はその後35年間この問いに答えなかった。回答らしきものが載ったのは1989年の第36版。曰く、「英国最速の狩猟鳥はアカライチョウで、無風時にごく短距離で時速58〜63マイルの瞬間速度を記録している。ムナグロには飛び立ち時に時速70マイルという主張もあるが、この鳥が時速50〜55マイルを超えられるかは極めて疑わしい」。なんとも歯切れが悪いうえに、答えているのは「英国最速」であって、争点だった「ヨーロッパ最速」ではない。さらに、現在のギネス公式サイトはより身も蓋もなく、「最も可能性が高いのはウミアイサだろう」と記している。つまり、あの晩言い争っていた全員が、そろって的を外していたことになる。

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