配信: 2026-09-03 18:00(JST)
夕刊
文化第125号

世界的ヒット文房具は、"失敗作"から始まった

チナミニチンチラが読み上げます(3分48秒)

商品開発の物語には、たいてい「試行錯誤の末に完成した」という一節がある。狙いを定め、失敗を重ね、最後に正解へたどり着く。ところが世界中のオフィスにあるあの黄色い付箋は、その筋書きを踏んでいない。正解にたどり着かなかった失敗作が、そのまま製品になったのだ。

1968年、アメリカのメーカー、3Mの上級研究員スペンサー・シルバーが挑んでいたのは、航空機の製造に使えるような強力な接着剤だった。目指したのは、強く、しっかり、離れない接着。しかし、できあがったのは、その真逆である。その接着剤は粘着力が異様に弱く、紙同士を留めておく程度の力はあるが、引っ張れば紙を破らずに剥がれてしまう。何度でも貼り直せるという特徴はあるが、強力な接着剤を目指した研究としては、完全な不合格だった。

面白いのは、シルバーがこれを捨てなかったことだ。何かユニークで役に立つものを作ったという確信だけはあり、けれど使い道が分からない。彼は用途を探して同僚に売り込む日々を、五年続けたという。1972年には特許まで取ったが、そこに書かれた想定用途はスプレーだった。世界的ヒット商品の設計図は、この時点ではまだ誰の頭の中にもない。

風向きが変わったのは1974年である。社内セミナーでシルバーの売り込みを聞いていたテープ部門の技術者アーサー・フライには、まったく別の悩みがあった。教会の聖歌隊で歌うとき、賛美歌集に挟んだ紙のしおりが落ちてしまうのだ。弱くて剥がせて跡が残らない接着剤——研究としては失敗だったその性質は、しおりの要件としては満点だった。フライは、シルバーの接着剤を用いて自作したしおりを社内に売り込みを始める。その過程で「紙に貼るしおり」は「貼って剥がせるメモ」へと形を変えていった。

もっとも、市場もすぐには理解しなかった。1977年に4都市でテスト販売した結果は芳しくなく、3Mは製造中止を検討する。だが、最後の試みとしてアイダホ州ボイシで無料サンプルを配って回ったところ、試した人の約9割が「買う」と答えた。一度使うと便利さに気づくが、使う前には価値が伝わらない——という付箋の抱えるデメリットを見事に打ち消す事ができた瞬間だった。その後1980年、ポスト・イットは全米で発売され、オフィスの必需品になる。

ちなみに、

この失敗作はニューヨーク近代美術館(MoMA)のデザインコレクションにも収蔵されている。作品名義はシルバーとフライの連名。航空機用接着剤の開発に失敗した男は、その失敗によって美術館にも名を残した。

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