被告人ならぬ被告石?「石そのもの」が訴えられた裁判
裁判の被告と聞けば、当然「人」を思い浮かべる。ところがアメリカの法廷には、拳ほどの大きさの石ころが被告人として出廷した裁判が実在する。裁判の名称に、人物の名前は一切登場しない。記されているのは「月の石」そのものだ。
事の発端は1970年前後にアメリカが世界各国に贈った「親善月の石」にさかのぼる。ニクソン大統領の指示で、アポロ計画が持ち帰った月の石の欠片がアクリル樹脂の球に封じられ、世界の首脳や各国政府に贈呈された。ホンジュラスにも一つが渡ったが、同国で起きた政変のどさくさに紛れてこの石は所在不明になってしまう。人類が命がけで持ち帰った希少な石が、外交儀礼の贈り物として配られた末に、政治の混乱のなかであっさり消えたわけだ。
数十年の時を経て、この石はフロリダの実業家アラン・ローゼンの手に渡り、500万ドルという法外な値段で転売されようとしていた。買い手を装ったNASA捜査官によるおとり捜査の末、石はバンク・オブ・アメリカの貸金庫から押収される。ここまでなら、盗品売買を暴いたよくある摘発事件に見える。
だが、いざ裁判となったとき事態は妙な方向に転がる。訴えられたのはローゼン個人ではなく、石そのものだったのだ。アメリカの法制度には「対物訴訟」という仕組みがあり、密輸品や盗品を没収する手続きでは、罪に問われるのは人ではなく「物」自体だと扱われる。争点も、ローゼンが罪を犯したかどうかではなく、この石が「盗まれた、密輸された、あるいはひそかに持ち込まれた」ものだと信じるに足る理由があるかどうかだった。もちろん、石を所有すること自体はアメリカの法律で違法ではない。問われたのは、その石がどんな経緯でこの国に渡ってきたかという、いわば石の「出自」そのものである。だから被告席に座るのも人ではなく石でよい、という理屈が成り立つ。誰も「窃盗犯」として裁かれないまま、石だけが法廷に居続けるという不思議な構図が生まれた。
こうして裁判の正式名称は「アメリカ合衆国 対 月の物質を含むルーサイト球、および十インチ×十四インチの木製プレート一枚」という、人名の一切ない奇妙なものになった。政府側は石の没収を求める対物訴訟を起こし、一方のローゼンは押収された私物の返還を別に求めるという、ねじれた構図で法廷は5年にわたり争われる。最終的に2003年3月24日、石は連邦政府への没収が確定してようやく決着した。一個の石ころをめぐって、人の名前を一度も被告名に刻まないまま法廷が5年も動き続けたという事実そのものが、すでに十分「え?」となる話だろう。
被告扱いされたのは石だけではない。正式名称の後半に記載されてる通り、「十インチ×十四インチの木製プレート」まで律儀に被告扱いされている。これは石が贈呈された際に台座として添えられていた展示用のプレートで、法律上は石とセットの共同被告として裁判に名を連ねていたことになる。木の板一枚まで正式に被告席に座らされた裁判は、そう多くはないはずだ。