配信: 2026-08-14 07:01(JST)
朝刊
科学第84号

ロンドンのタクシー運転手試験は、脳の形が変わるほど難しい

チナミニチンチラが読み上げます(4分10秒)

ロンドンの黒塗りタクシー、通称「ブラックキャブ」の運転手は、カーナビなど存在しなかった時代の名残で、街の地理に異様に詳しい。実際、彼らは今でもスマートフォンのナビをほとんど使わず、複雑に入り組んだロンドンの路地裏まで即座に案内できることで知られている。とはいえ、それは単なる職人気質の演出だろう、経験を積めば誰でもそうなるものだろう、と思う人も多いかもしれない。

ところが実態は想像以上に過酷だ。ロンドンでタクシー免許を得るには「ザ・ナレッジ」と呼ばれる試験に合格しなければならない。チャリング・クロスを中心とした半径6マイル圏内にある道路とランドマークをほぼすべて暗記し、「ブルーブック」に載る320ものルートと、その始点・終点周辺の四分の一マイル以内にあるあらゆる通りや建物を頭に叩き込む必要がある。対象となる通りやランドマークは2万5000以上ともいわれ、受験生は試験官を前に「この道からあの通りまで」と即興でルートを口頭説明する「アピアランス」と呼ばれる面接を何度も突破しなければならない。合格率はおよそ5割、習得には平均3〜4年かかるという、資格試験としては異例の長丁場だ。今やスマートフォンのナビやAIがどんな道でも案内してくれる時代になっても、この試験は簡略化されずに残り続けている。

さらに驚くのは、この過酷な暗記修行が受験者の脳そのものを物理的に変化させるという研究結果だ。神経科学者エレノア・マグワイアらが2000年に発表した研究で、試験に合格したタクシー運転手の脳をMRIでスキャンしたところ、記憶や空間認識を司る「海馬」の灰白質が、免許を持たない対照群と比べて明らかに肥大していることが分かった。研究者によれば、海馬の中で新たな神経細胞が生まれたか、既存の神経細胞同士の結びつきが増えた可能性があるという。しかも興味深いのは、勤続年数が長いベテラン運転手ほど、海馬後部の体積が大きくなっているという相関まで確認された点だ。一方で、同じように猛勉強しながら試験に落ちてしまった人たちの脳には、こうした変化はまったく見られなかったという。つまり単に地理好きな人が試験に挑んでいるという話ではなく、何年にもわたる猛烈な訓練そのものが、脳の構造を実際に作り替えている可能性が高いということになる。大人になってからでも経験に応じて脳が変化しうる「可塑性」を、これほど具体的に示した例は珍しい。

ちなみに、

この海馬の発達と無関係ではなさそうなデータもある。2024年に医学誌BMJに掲載された大規模な追跡調査によれば、タクシー運転手がアルツハイマー病で死亡した割合は約1.03%と、調査対象となった443の職種の中でも際立って低い部類に入った。全職種平均が約3.88%であることを踏まえると、実に4倍近い開きだ。同様に複雑な経路を瞬時に判断し続ける救急車の運転手も低い数値を示しており、研究チームは、日常的に高度な空間認知を酷使する仕事が、加齢による記憶機能の衰えに対して何らかの防御的な役割を果たしている可能性があると指摘している。

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