スペインの国歌には、歌詞がない
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オリンピックの表彰台。国歌が流れ、選手が胸を張って口を動かす——あの光景が、スペイン代表には存在しない。国歌「マルチャ・レアル(王の行進曲)」には、公式な歌詞が一行もないからだ。曲自体の歴史はかなり長く、楽譜が文書に初めて載ったのは1761年、軍の笛と太鼓の教則本。世界最古級の国歌が、無言のままここまで来ている。
詞がこれまで一度も書かれなかった、というわけではない。アルフォンソ13世が統治した時代や、フランコ体制期にも詞は作られたが、どれも正式採用には至らなかった。フランコが承認していた詞は独裁の終焉後に捨てられ、1978年以降はずっと言葉なしで演奏されている。
そんなスペインだが、2008年に歌詞採用のあと一歩まで迫ったことがある。マドリードの2016年五輪招致を前に、スペインオリンピック委員会の会長が、リヴァプールの本拠地アンフィールドで「You'll Never Walk Alone」の大合唱を浴び、うちにもあれが欲しいと火が付いたのが始まりだった。どんな機会にも歌う陽気な国民なのに自国の国歌だけ歌えないのはおかしい、と彼は言い出し、歌詞の公募が始まる。集まった応募は約7000通。選ばれたのは、52歳・失業中のエンジニア、パウリーノ・クベロの詞だった。1月21日の委員会晩餐会で初披露する——そこまで段取りは組まれていた。
プランが崩れたのは、その10日前。詞が報道に漏れた瞬間だった。各節の冒頭に置かれた¡Viva España!(スペイン万歳)が、独裁者フランコの掛け声を想起させると批判が噴出。祖国を愛せという表現も問題視され、カタルーニャやバスクの民族主義勢力からも即座に反発が来る。委員会は、多様な国民を一つにするだけの合意が得られなかったとして、漏洩からわずか5日後に撤回した。失業手当の窓口に戻ったクベロは、こう言い残している。「これが我が国の惨めなところだ」。以来、歌詞制作に向けた新たな挑戦は行われていない。
歌詞を持たない国歌は世界に数えるほどしかなく、スペイン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボが定番の三つ。サンマリノも公式行事では無言の器楽曲が演奏されるが、2025年9月に非公式の詩の冒頭から「テラ・ディ・リベルタ(自由の地)」と正式に題された。