胃潰瘍の原因を証明するために、細菌を飲み干した医師
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胃潰瘍と聞いて、何が原因だと思い浮かべるだろうか。働きすぎ、気苦労、ストレス——というイメージではないだろうか。これは素人の思い込みではなく、数十年にわたって医学の世界でも常識だった。潰瘍はストレスや刺激物、胃酸の出すぎで起こる。そう考えられていたのである。
ところが1984年、その常識を自分の体で覆した医師がいる。オーストラリアの医師バリー・マーシャルは、患者の胃から採った細菌を培養し、培養皿2枚分を溶かした液体を自分で飲み干したのだ。
彼が疑っていた犯人は、ヘリコバクター・ピロリという細菌だった。1981年に病理医のロビン・ウォーレンと出会い、翌年には彼と共にピロリ菌の培養にも成功。細菌原因説を提唱した。しかし、胃という強酸の中で細菌が生きられるはずがないという反論は根強く、1983年にオーストラリアの消化器病学会へ提出した論文は、その年の投稿の下位10%という評価で突き返されている。
そもそも、なぜ誰も見つけていなかったのか。菌の採取は喉の奥の粘液や分泌物を綿棒でぬぐい取り、その液を培養する手順で行われるが、2日もすれば口の中の他の微生物の影響で使い物にならなくなる。なので培養液を2日で捨てるのが、当時の標準手順だった。ところが31番目の検体は、技師が別の病院業務で手一杯になったせいで木曜から翌週の月曜まで放置され、そこにピロリ菌が現れた。この菌は、他の細菌より育つのが遅かったのだ。
証明の最後の壁は、動物モデルがないことだった。子豚に感染させる試みは失敗。人間でなければ確かめられないが、健康な人にわざと菌を飲ませる実験などできない。そこでマーシャルは、まず内視鏡で自分の胃にピロリ菌がいないことを確認し、三週間後にその培養液を飲んだ。想定していたのは、何年か先に静かに潰瘍ができるかもしれない、という程度の話だった。
体の反応は、はるかに速かった。数日で食後の膨満感と吐き気が出て、食欲が落ち、朝には酸の混じらない水のような液体を吐くようになる。胃酸が出なくなったため口臭も生じ、妻がそれに気づいた。飲んでから1週間あまりで受け直した内視鏡は、胃が激しく炎症を起こしていることを示し、生検した組織からはピロリ菌が培養された。菌は、彼の胃に住みついていたのだ。
こうしてピロリ菌は、健康な人の胃にも炎症を起こす病原体だと実証された。もっとも、これで証明できたのは胃炎までで、潰瘍そのものの原因だと示すには足りていない。14日目に三度目の内視鏡を受け、妻の指示で彼は抗生物質を飲み始める。この苦労が報われたのは、その21年後だった。2005年、マーシャルとウォーレンはノーベル生理学・医学賞を受賞する。かつて慢性で厄介な病気だった胃潰瘍は、抗生物質と胃酸を抑える薬を短期間飲めば治る病気になっていた。
1985年に発表されたこの自己実験の論文に、菌を飲んだ人物としてマーシャルの名は出てこない。三人称で書かれ、飲んだのは「男性ボランティア」とだけ記されていた。それが本人だったと知られていくのは、後のことだった。