海の王者シャチにも、声を聴くだけで逃げ出す相手がいる
音声を読み込めませんでした。少し待ってからもう一度どうぞ
シャチは、海の食物連鎖の頂点に立つ動物だ。ホホジロザメを襲って栄養豊富な肝臓だけを食べるなど、恐ろしいエピソードを沢山持つ狩りの名手で、天敵と呼べる存在はいない。シャチを怯えさせられるものなど海にはなさそうに思える。
ところが、そんなシャチにも逃げ出す相手がいる。ヒレナガゴンドウという、シャチよりずっと小柄なイルカの仲間だ。しかも実際に襲われるわけではない。鳴き声が聞こえてくるだけで、シャチは向きを変えて去っていく。
アイスランド大学のアンナ・セルブマンらは、2021年から2023年の夏、アイスランド南部のヴェストマン諸島周辺で確かめにかかった。8頭のシャチに吸盤式の記録装置を取り付け、別の船から500メートル〜1キロ離れた水中スピーカーで15分間の音を流す。流したのはヒレナガゴンドウの鳴き声、比較用には広帯域ノイズだ。
結果は明快だった。鳴き声を流すと、シャチの平均速度は秒速1.5メートルから2.7メートルへと跳ね上がった。群れは互いの間隔を詰め、縦に並び、その場をうろうろする動きをやめて、8頭のうち4頭が音源から離れる向きへ舵を切った。ほかにも、すでに遠ざかる進路にいた個体や、スピーカーの横を加速して通り過ぎた個体がいた。一方、比較用のノイズを聞かせた5頭のうち4頭は、はっきりした反応を見せていない。スピーカーから流れる音全てに反応しているわけではなく、ヒレナガゴンドウの鳴き声のみがシャチを追い払っていたのだ。
この逃走は、以前からの目撃と符合する。2004年以降に記録された野生での遭遇では、ゴンドウクジラが現れるとシャチのほうが退いていた。アイスランドでも2007年から2020年にかけて24回の遭遇が確認され、その7割近くでシャチは接近される前に場を離れ、3割弱では両種が水面を跳ねながら最大時速25キロで追いかけ合う高速チェイスになっていた。
なぜ王者が小物から逃げるのか。これが分かっていない。ゴンドウクジラがシャチを襲った例は、多くの遭遇が観察されてきたにもかかわらず報告がなく、餌を奪い合う関係でもない。有力な説明の一つは、鳥でよく見られる「モビング」——危険な相手から逃げる代わりに、集団で付きまとって追い出す行動だ。ゴンドウクジラは大きく騒がしい群れで動き、高速でシャチに近づいていくことが観察されている。体格ではなく頭数で勝負し、あの声は「割に合わない面倒がこっちへ来ている」という予告として機能しているのかもしれない。
この関係は一方通行ではない。先行研究では、ゴンドウクジラにシャチの鳴き声を聞かせると、聞こえる範囲にいる個体は音のほうへ寄っていった。つまり海の中では、小柄なほうから王者の声を頼りに居場所を突き止めて押しかけ、王者はその声を早期警報にして立ち去っている。どんなに強い頂点捕食者であっても、すべての喧嘩を買うことはしないらしい。