母タコが卵を守って餓死するのは愛情ではなく、とあるスイッチが原因だった
母親が我が子のために命を捧げる。タコの世界にも、そんな涙腺を刺激する話がある。メスのタコは卵を産むと、その場を片時も離れず外敵を追い払い、体をくねらせて新鮮な水を送り続ける。孵化までの期間は種によって数ヶ月からときに数年に及ぶが、その間ずっと一切の捕食行動をやめてしまう。当然体は衰弱し、多くの母だこは卵がかえるのを見届けた直後、あるいはその途中で息絶える。この姿は「母性愛の極致」として語られてきた。
ところが、この献身の正体を突き止めようとした研究者たちが見つけたのは、感動的でもなんでもない一つの器官だった。タコの目の後ろには「視葉腺」と呼ばれる、脊椎動物の下垂体に近い働きを持つ分泌腺がある。1977年、ブランダイス大学のジェローム・ウォディンスキーはカリブ海に生息する二紋章タコで、この視葉腺を外科的に取り除く実験を行った。すると結果は劇的だった。腺を失ったメスは卵の世話をぴたりとやめ、放置して自ら餌を食べ始めたのだ。体重は増え、なかには再び交尾をした個体までいたという。
つまり、命を削ってでも子を守るという行動は「愛情」という感情の発露ではなく、視葉腺から分泌される特定の物質が引き起こす、いわば生殖後にオンになる一つのスイッチだったのだ。このスイッチが入ると食欲そのものが抑制され、母だこは餌を目の前にしても口にしなくなる。逆に言えば、スイッチさえ切れば、体はまだ十分に生きられる余力を残している証拠でもある。実際、2018年に発表された追跡研究では、視葉腺を切除された個体は無傷の個体に比べて平均5.75ヶ月も長く生きたことが確認されている。数ヶ月という差は、タコの寿命が一年から二年程度しかないことを考えると、人間で言えば余命が数十年単位で延びるのに近い衝撃的な数字だ。母性愛といえば聞こえはいいが、実態は「スイッチが入ったら最後、餓死するまで止まらない」という、かなり容赦のない仕組みだったのだ。
この発見は、タコの寿命そのものが単なる「老化」ではなく「あらかじめ仕込まれたタイマー」によって管理されている可能性を示している。もし人間の老化にも似たような単一のスイッチが存在するとしたら…と夢想したくなるが、タコの神経系は人間とは大きく異なり、単純に応用できるものではない。
研究チームはさらに、この視葉腺から出る指令が母性行動だけを操作しているのではないことも突き止めた。摂食の停止、体力の消耗、そして最終的な死まで、一見バラバラに見える一連の現象が、複数のシグナル伝達経路を通じて同じ腺から連鎖的に引き起こされていたのである。つまり母だこの死は老いた末の自然な最期ではなく、産卵を引き金にあらかじめ体に組み込まれた「終了プログラム」が作動した結果だったというわけだ。
この「母だこの献身」の謎に最初にメスを入れたのウォディンスキーは、海洋生物学者ではなく心理学者だった。彼はもともと動物の学習行動を研究していた人物で、まさか自分の実験がタコの寿命を操作する発見につながるとは思っていなかっただろう。彼が1970年代に見つけたこの一つの腺の力は、その後数十年を経て遺伝子解析の技術が進んだことで、ようやく「複数の経路が絡む精巧な自爆装置」だったと裏付けられることになる。