配信: 2026-08-13 07:01(JST)
朝刊
地理第82号

アメリカに実在する、「殺人しても裁けない」エリア

チナミニチンチラが読み上げます(4分32秒)

アメリカで重大な刑事事件、たとえば殺人が起きれば、犯人は必ずどこかの裁判所で裁かれる――普通はそう思うだろう。陪審制度が機能不全に陥って裁判自体が成立しないなど、法治国家では起こり得ないはずだ。

ところがアメリカ国内には、理論上「殺人を犯しても裁判にかけられない」場所が実在する。舞台はイエローストーン国立公園。ロッキー山脈にまたがるこの巨大な国立公園は、行政区画としてはワイオミング州・モンタナ州・アイダホ州の3州にまたがっているが、公園内で起きた事件の刑事裁判管轄は、歴史的経緯からまとめてワイオミング州の連邦地方裁判所に置かれている。この一見すると小さな制度上のねじれが、公園内でもアイダホ州に属する約130平方キロメートルのエリアに、法律家の間で「ゾーン・オブ・デス」、日本語では「死の地帯」と呼ばれる奇妙な、そして致命的な穴を生んでいる。

種明かしはアメリカ合衆国憲法修正第6条にある。同条は刑事被告人に対し、「犯罪が行われた州および地区」の住民から選ばれた陪審による裁判を受ける権利を保障している。つまり陪審員は、事件が起きた「州」の住民であると同時に、事件が起きた「連邦地区」の住民でもなければならない。ここで問題になるのが、イエローストーンのアイダホ州側はほぼ無人の原野で、野生動物は生息しているが、陪審員になれる定住者は事実上存在しないという点だ。もし誰かがこの一帯で殺人を犯した場合、検察は「アイダホ州民」かつ「ワイオミング連邦地区民」という条件を同時に満たす陪審員を、理論上一人も集められない。陪審が組めなければ憲法上、裁判自体が成立しない――というのが、この抜け穴の骨子である。

この論理を2005年に論文「The Perfect Crime(完全犯罪)」としてジョージタウン大学のロー・ジャーナルに発表し、世に知らしめたのは検察官でも探偵でもなく、一人の憲法学者、ブライアン・カルトだった。特別な犯罪捜査によって秘密を突き止めたわけではない。現行法と憲法の条文を突き合わせ、その意味を突き詰めていった結果、約50平方マイルの土地に重大犯罪を適切に裁けない可能性があることを発見したのである。もっとも、ここで犯罪を犯せば無条件で処罰を免れられると確定しているわけではない。この主張が法廷で本格的に争われた場合、裁判所がどのような判断を示すかも明確ではない。それでも、憲法の文言をそのまま適用すれば、重大犯罪を審理するための陪審員を確保できないという事実は消えない。この「制度上の抜け穴」は、指摘されてから20年以上が経過した現在も、未解決の問題として知られ続けている。

ちなみに、

この話が近年あらためて注目を浴びたきっかけは、イエローストーン園内で行方不明事件が相次ぎ、「もし公園内の問題地域で重大事件が起きたら、犯人を正しく裁けるのか」という不安が再燃したためだ。少なくとも2022年の報道時点では、この抜け穴によって重大犯罪が処罰されなかった事例は確認されていない。それでも、事件が起きてからでは遅いとして、議員らは連邦議会に法改正を働きかけている。法治国家アメリカに残された、極めて珍しい“憲法と行政区分のねじれ”。イエローストーンの大自然の片隅には、今もなお法律家たちを悩ませる未解決の法的空白地帯が存在しているのである。

この話、知ってた?
チナミニ毎朝 7:00
ちなみに、ハチミツは腐りません。数千年前のハチミツも、まだ食べられ……
毎朝7時と毎晩18時、
今日のちなみには、アプリで。
通知を受け取れば、開かなくても
ひとつ賢くなれます。
App Store でダウンロード