沖縄の離島では、円ではなく「砂糖の引換券」が流通していた
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大東諸島は、沖縄本島の東の海に浮かぶ島々である。日本の一部なのだから、そこで買い物に使われていたお金はもちろん円——と考えるのが自然なところだが、戦前のこの島々では、日本政府発行の硬貨も日本銀行券も一切流通していなかった。
代わりに島民の財布に入っていたのは、「南北大東島通用引換券」という名前の紙切れだった。通称、大東島紙幣。もとは製糖会社が発行した砂糖の手形で、1銭から10円まで6種類が刷られ、島ではこれが事実上の通貨として通用していたのである。
では、なぜそんなことになったのか。大東諸島はもともと無人島で、1885年にようやく日本領に編入された島々だった。1900年、八丈島の豪商・玉置半右衛門が組織した開拓団が上陸してサトウキビ栽培を始めると、島はまるごと、製糖業を営む玉置商会の所有物になる。特例として町村制は施行されず、島の自治は会社に全面的に委ねられた。日本の行政が及ばない「社有島」の誕生である。
会社が持っていたのは土地だけではない。島への渡航手段も商店も郵便局も、すべて社有。警察官すら、会社が人件費を負担する請願巡査だった。そして管理的役職の者を除く島民は、全員がサトウキビを納める小作農などの使用人である。つまり、雇い主と商店主と警察の元締めが、全部同じ一社だったのだ。
この構図の上に引換券が乗る。給料は全額が会社発行の券で支払われ、その券が使えるのは会社が経営する商店だけ。会社の側からすれば、島民に渡すべき現金を用意する必要がない。そして手元に残った日本円を運用することで、大きな利益を上げていたという。
もう一つの効き目が、島の外への出口にあった。引換券は島の中でしか使えないため、島を出るときは会社の事務所で日本円に交換できるとされていた。裏を返せば、事務所を通らない限り、稼いだ給料は島を一歩出た瞬間にただの紙になる。これが、出稼ぎ労働者が勝手に島から逃げ出すのを防ぐ役目も果たしていた。
本物の日本円が島内に一枚も出回らない状態は長く続き、島の子供たちはこの引換券を日本の正式な通貨だと思い込んでいたという。島の権益が玉置商会から東洋製糖、さらに大日本製糖へと移り変わっても、引換券の発行は続けられたとされる。いつまで流通していたのかは、記録に乏しく今もはっきりしない。
住民による自治がようやく始まったのは戦後の1946年。それでも島の土地は製糖会社のもののままで、南大東島の島民に土地所有権が認められたのは1964年、琉球列島高等弁務官の裁定によってだった。開拓団の上陸から、実に60年以上が経っていたのである。
島じゅうで使われていたはずのこの引換券、現在は北大東村民俗資料館に2枚、南大東村のふるさと文化センターに1枚が保存されているという。島の二つの資料館に残るのは、合わせてたった3枚である。