配信: 2026-08-02 07:00(JST)
朝刊
科学第60号

死ぬことが禁止された町の墓から、80年前のインフルエンザが掘り出された

チナミニチンチラが読み上げます(4分23秒)

世界のたいていの地域では、人が死ねば墓地に埋葬され、それで一区切りとなる。至って当たり前の話だ。ところがノルウェー領スヴァールバル諸島にある町ロングイェールビーンでは、この当たり前が通用しない。1950年以降、この町の墓地には新たに埋葬することが事実上禁じられているのだ。死ぬこと自体が違法というわけではないが、実質的に「死んではいけない町」として知られている。

理由は気候にある。北緯78度、永久凍土の上に築かれたこの町では、地中に埋められた遺体が分解されずに凍結保存されてしまう。土に還るはずの死者が、何十年経ってもほぼそのままの状態で眠り続けてしまうのだ。問題は遺体そのものより、遺体に宿ったままの病原体にある。感染症で亡くなった人を埋葬すれば、ウイルスや細菌が土の中で生き延びたまま次の世代まで持ち越されかねない。そのため今日でも、余命わずかとなった住民は本土のノルウェーへと移送され、そこで最期を迎えることになっている。

ところが、この「腐らない」という性質が、80年後にまったく違う意味を持つことになった。1998年、カナダ人研究者キルスティ・ダンカンらを中心とする国際研究チームが、町の許可を得てこの墓地を掘り返したのだ。目当ては1918年に大流行したスペイン風邪、いわゆる1918年インフルエンザで命を落とした炭鉱夫6人の遺体だった。世界で数千万人ともいわれる死者を出したこのパンデミックのウイルスは当時発見されておらず、その正体は長らく謎に包まれていた。永久凍土に眠る犠牲者の体には、そのウイルスの手がかりがそのまま封じ込められているはずだった。

掘り出された遺体を調べた研究チームは、肺・腎臓・肝臓・脳の組織からインフルエンザウイルスの遺伝物質、RNAの断片を回収することに成功したと発表した。今では禁じられている死が、80年の時を経て感染症研究の貴重な資料を蘇らせた瞬間だった。

もっとも、話はここで単純な大成功に終わらない。当時の報道や後年の検証によれば、実際の保存状態は理想ほど良くはなく、ウイルスを完全な形で回収し復元するには不十分だったとされる。永久凍土が死者を「腐らせない」という前提そのものは正しかったが、80年という歳月と埋葬環境は、断片的な遺伝情報を残す程度にとどまり、狙い通りの「凍結保存されたウイルスをまるごと差し出す」とまではいかなかったわけだ。実際、1918年インフルエンザの全ゲノムが解明されたのは、これとは別にアラスカの永久凍土から見つかった犠牲者の検体研究による功績が大きいとされる。ロングイェールビーンでの発掘は、パンデミック研究史に残る重要な挑戦ではあったが、「凍った墓から蘇ったウイルス」という単純な物語ほどには、綺麗な決着を迎えなかったのである。

ちなみに、

掘り返された炭鉱夫たちの遺体は、80年の歳月が経っていたにもかかわらずほとんど分解が進んでおらず、埋葬されてからさほど時間が経っていないかのような状態だったという。永久凍土という天然の冷凍庫は、ウイルスの断片だけでなく死者の姿かたちそのものも、律儀に80年間守り続けていたことになる。

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ちなみに、ハチミツは腐りません。数千年前のハチミツも、まだ食べられ……
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