科学第158号朝刊

ヨーロッパ中を震撼させた謎の連続殺人犯、DNA鑑定でも特定できなかった驚きの理由

チナミニチンチラが読み上げます(4分42秒)

DNA型鑑定と聞けば、科学捜査の決定的な一手という感覚ではないだろうか。現場に残ったわずかな細胞から個人を特定し、目撃証言もアリバイも覆してしまう——おおむね、そんな信頼の置かれ方をしている技術である。

ところが、その鑑定が15年がかりで存在しない殺人犯を作り上げた例がある。2007年5月、ドイツ南部ハイルブロンの駐車場で、休憩中のパトカーが襲われた。22歳の女性警官が頭を撃たれて死亡し、同僚の男性警官も重い障害を負った。現場から採取されたDNAを照合すると、同じ女性のDNAがドイツ各地の殺人・強盗・薬物事件の現場から続々と見つかり、やがてフランスやオーストリアにまで広がった。1993年の殺人事件まで遡って一致し、殺人6件を含む計40件が一人の女に結びついたのである。

ミトコンドリアDNAの分析では、東欧やロシア出身者に多い特徴が出た。警察はこの人物を「顔のない女」と呼び、2009年1月には懸賞金を30万ユーロまで引き上げた。調査に費やした残業はハイルブロン署だけで1万6000時間に達し、ヨーロッパ各国からプロファイラーが招集され、警察は占い師にまで相談したという。

しかし、つじつまの合わない事実が積み上がっていく。この女は凶悪な殺人犯でありながら、学校への侵入や自動車販売店の強盗にも関わっていた。共犯者の国籍はスロバキア人からルーマニア人までばらばらで、有罪になった当人たちは誰もそんな女はいないと言う。監視カメラは一度も姿を捉えず、目撃者はときに男に見えたと証言した。

決定的な一件は2009年3月に起きた。焼死体の身元を調べるため、ある男性が何年も前に提出していた難民申請書の指紋を再鑑定したところ、そこから「顔のない女」のDNAが検出されたのだ。男性の書類から女性のDNAが出るはずがない。そこで別の綿棒を使って同じ検査をやり直すと、今度は何も出てこなかった。

つまり、「顔のない女」のDNAは現場にあったのではなく、採取に使う綿棒に最初から付いていた。各国の捜査機関が使っていた綿棒はすべて同じ工場から出荷されたもので、包装の工程は素手で行われ、その工場は東欧出身の女性を多く雇っていた。プロファイルが描き出していた「東欧系の女」は、犯人ではなく綿棒の梱包係だったのである。綿棒は滅菌済みではあった。ただし滅菌が殺すのは細菌やウイルス、カビなどで、DNAは壊さない。そもそもDNA採取用として認証された製品ではなかった。

ドイツの新聞ビルトは、見出しで「警察の頭は綿で詰まっているのか。」と皮肉った。事件の捜査はすべて振り出しに戻ったのである。この失敗を教訓に、国際標準化機構は2016年、捜査用の消耗品にヒトのDNAが混入しないための規格ISO 18385を発行している。これを満たす特殊な綿棒は、普通の綿棒の100倍以上の値段で売られているという。

ちなみに、

ドイツには「顔のない女」が一度も現れなかった州がある。バイエルン州だ。すぐ周辺の州では何度もこのDNAが検出されていたのに、州内では一件もない。バイエルン州警察だけが、別の工場から綿棒を仕入れていたからである。

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