架空の偉人「トースターの発明者」
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電気トースターを発明したのは誰か。そう聞かれて名前が浮かぶ人は、まずいないだろう。ところが2010年代の約10年間、英語版ウィキペディアにはその答えがはっきり書かれていた。アラン・マクマスターズ、1893年にスコットランドのエディンバラで電気トースターを発明した男だ。19世紀風の、少し傷んだモノクロの顔写真まで添えられていた。しかし、そんな人物はヴィクトリア朝に存在しない。
発端は2012年2月6日、イギリスのサリー大学で行われた力学の講義だった。講師は学生たちに、ウィキペディアを出典に使ってはいけないと警告する。その実例として、自分の友人がトースターの記事を書き換えて発明者は自分だと主張している、と話した。そして、その講義を聞いていた航空宇宙工学科の学生の一人の名前が、アラン・マクマスターズだったのだ。
講義のあと、アランと友人たちはさっそくその記事を開いた。間違いを直すのではなく、書き込まれていた他人の名前をアランの名前に差し替えた。発明の地はエディンバラ、年は1893年。
ここまでなら学生の悪ふざけで済む話だが、さらに異様なのはこの先だ。翌2013年2月、友人の一人が、アラン・マクマスターズ個人の記事まで作成した。添えた肖像写真は、自分を撮った写真を19世紀の古写真に見えるよう加工したもの。架空の経歴は、年を追うごとに盛られていく。電気ケトルの発明も彼の功績になり、ロンドン地下鉄の照明システムの開発を手伝ったことにもなった。発熱体が溶けて女性のキッチンテーブルが燃えたという、イギリス最初期の家電火災のエピソードまで書き足された。
嘘が事実に化けていく仕組みは、「循環報告」と呼ばれる。出典のない記述を新聞が引用し、その新聞記事が今度はウィキペディアの出典欄に貼られる。するとその一文は、きちんと裏の取れた事実として自立してしまうのだ。実際、『The Scotsman』などの新聞が彼を発明者として紹介し、政府機関や博物館も追随した。複数の言語の書籍にも、トースターの発明者として名前が載った。
そして架空の発明者は、現実の世界にまで入り込んでいく。スコットランドの小学校が彼を記念する日を設けた。イングランド銀行が50ポンド紙幣に載せる人物の推薦を公募したときには、適格と判断された989名の一人に事前選出されている。2014年のスコットランド独立住民投票では、スコットランド政府が資金を出す団体が、独立してもスコットランドは成功できる証拠として彼の物語を引用した。
この悪ふざけが破綻したきっかけは、文章ではなく写真だった。2022年7月、イングランド・ケント在住の10代の学生アダムが、授業で教師からマクマスターズの話を聞き、気になってそのページを開いた。写真に違和感を覚えて細かく検証すると、加工された画像だと判明する。彼はその発見をネット掲示板Redditに投稿した。記事そのものが丸ごと作り話だとは、この時点では思ってもいなかったという。投稿を読んだ人物がウィキペディア批判者の集まる別のフォーラムに報告し、そこで記事全体の正体が暴かれた。ページはすぐに偽物と明示されて削除へ回され、嘘を仕込んだアカウントも利用を止められた。
では、本当の発明者は誰なのか。ポップアップ式トースターは、1890年から1920年にかけて複数の人物と企業が生み出した技術の積み重ねでできている。たった一人の発明者を名指しできない家電だったからこそ、誰も確かめようとしない空席が残り、そこに架空の人物がすんなり座れたのかもしれない。
嘘を仕込んだ本人が、これは笑い話では済まないと最初に気づいたのは、ヴィクトリア朝の発明家について書かれた本を読んでいたときだという。発明家の一覧に、アラン・マクマスターズの名前を見つけてしまったのだ。