文化第237号朝刊

絶賛された新進の前衛画家ピエール・ブラッソー、正体は4歳のチンパンジー

チナミニチンチラが読み上げます(3分56秒)

1964年2月、スウェーデンのヨーテボリの画廊で、ヨーロッパ各国の画家を集めた展覧会が開かれた。イギリス、デンマーク、イタリアなど各地の作品が並ぶ中で、注目を一身に集めたのは、それまで誰も名前を聞いたことのないフランス人の前衛画家だった。名はピエール・ブラッソー。ワイングラスを手にした評論家や記者たちが、その作品4点の前で黙り込んだ。

そんな気鋭の新人画家だが、実は存在しない。筆を握っていたのは、スウェーデンのボロース動物園にいたピーターという4歳のチンパンジーである。仕掛けたのは地元タブロイド紙ヨーテボリ・ティドニンゲンの記者、オーケ・アクセルソン。本物の前衛美術とサルが塗りつけた絵の具を、評論家は見分けられるのか。それを試すために、彼はピーターの飼育係を説き伏せ、絵筆と油絵の具を持たせたのだ。

もっとも、画家本人にその気はなかった。ピーターは最初、絵の具をカンバスに乗せるより食べるほうに熱心で、とりわけ酸味のあるコバルトブルーを好んだ。そのため、ブラッソー作品にはコバルトブルーがふんだんに使われることになる。制作中はバナナを手元に置き、調子が出てくると10分で9本を平らげたという。アクセルソンは何枚か描かせたうえで出来のいい4点を選び、画廊の展覧会に紛れ込ませた。

評価は、ほぼ満場一致の絶賛だった。地元朝刊紙ヨーテボリ・ポステンの評論家ロルフ・アンデルベリは、展覧会のほかの作品を重苦しいと切り捨てた。そのうえで、ブラッソーの絵には力強い筆致と明確な意志が宿っていると書いた。筆はねじれるように狂おしく走り、ピエールはバレリーナの繊細さで仕事をする画家だ、とも讃えている。動物園のチンパンジーが、一夜にして欧州の新星になったのである。

しかし、ただ一人だけ酷評した評論家がいた。その評は短かった。「サルにしか描けない」。結果として、本当に的を射ていたのはこの一行の酷評だけだった。

種明かしのあとも、アンデルベリは評価を撤回しなかった。あの絵が展覧会で一番いい作品であることは変わらない、と言い張ったという。実際に値もついている。あるコレクターが1点を90ドルで買っていった。2025年の貨幣価値なら900ドルあまりにあたる。ピーター自身は1969年にイギリスのチェスター動物園へ移され、そこで生涯を終えた。

ちなみに、

評論家がチンパンジーの絵に引っかかったのは1964年の一度だけではない。2005年、ドイツの州立美術館の館長が、ある絵を見て、グッゲンハイム賞を受けた画家エルンスト・ヴィルヘルム・ナイの作品だろうと鑑定した。描いたのは、ハレ動物園にいた31歳のメスのチンパンジーだった。間違いを告げられた館長は、「少し急いで描いたように見える気もした」と漏らしたという。

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